2012年 05月 19日
BSの「THEナンバー2」で桂小五郎が取り上げられました。 ゲストは逆接の日本史の井沢元彦さん。確かコラムで桂小五郎を好意的に書いてくれていたので、安心して見ていられました。娘がいたら龍馬や西郷より桂小五郎に嫁がせたいとまで、言ってくれてました(笑)。司会の2人も理想の男性とか、結構持ち上げてくれていました。 取り上げる人物をすべて誰かのNo.2に位置付けなければならない、という切り口がよく分からない番組ですが・・・。あまり日の当たらない影の主役を取り上げるってことらしいです。 松陰先生がNo.1ってことで、一番弟子として遺志を受け継いだNo.2だって話に始まり、毛利の殿様のNo.2として藩の外交担当したとも説明されてました。まさか維新後は大久保のNo.2と言われないか心配しましたが、それは無かったです。最後は日本のNo.2って言われてたけど、じゃあNo.1は誰?明治天皇なのか? 木戸さんのNo.1は国民だよ!って私は言いたい。そうまとめて欲しかったな。 今回番組内でよく使われていた木戸さんの写真が、私のお気に入りの、"微笑んでいるようにも見えなくもないあの写真"だったのは嬉しかったです。あまり他で使われないのにね。 池田屋で仲間を見捨てて逃げたとか、蛤御門に一人いなかったとか、またいつものように揶揄されてましたが、そこは井沢先生が桂は無謀な暴走に加わらず、もっと大局を見ていたんだと、フォローしてくれたり、神道無念流の思想とからめ、戦いを避けたのだと説明されていました。 ただ、世間的には、「池田屋に着いた時まだ集まってなかったから、一旦対馬藩邸に行った」では無く、「屋根づたいに逃げた」説のほうが有力なんですか〜?ヒストリアもそうだったし。 臆病者の汚名をあえて受けても、新しい国を作るために身を捧げることを選択したんだとか、白刃をかい潜って生き延びたとか表現してくれたらカッコいいのに、逃げた隠れたとばかり言われるから、世間にヘタレイメージがついてしまうのよ、悔しいわ〜。 料亭「幾松」のご主人さんも出演されていて、例の長持ちエピソードも紹介されていました。 薩長同盟は、10日間ダンマリは桂小五郎の交渉戦術という説明で、対等なる薩長同盟がなければ今の日本はないし、憎しみを乗り越え日本のためにと抑えられる桂小五郎でなければ、同盟は成し得なかったと、このくだりは結構絶賛でした。 子孫の和田明允先生が取材を受けていらっしゃって、桂小五郎は、身分でなく人間と言うものに基礎を置いていたんだ、と語られていました。 「三千万の人民をどのようにしてゆけば良いのだろうか。」そう明治政府の舵取りをしていく不安を吐露した詩を見せてくださって、平民を含め全国民のことを考えていた木戸さんの想いが、これに全部乗っているようなものだと、ピンポイントで出してこられるとは、さすがご子孫〜と思いました。ここが一番良かった! あと番組では、龍馬や他の三傑たちは下級武士で虐げられたりもしてたけど、桂小五郎は金持ちのエリート上級武士。武士の世を守る側のはずの人間が、既得権益を壊すようなことをしたということを、評価してくださってもいました。 最後は霊山の墓地が出てきて、木戸さんが幕末の志士を弔うために発案して自らもそこに眠っていることが語られエンドロール・・・。 結局まとめは、回り回ってやっぱり吉田松陰のNo.2ではないかと。番組タイトルのせいか、No.2にあくまでこたわる番組だった(笑)。松陰先生が誰ががやらなければ時代は変わらない、自分は死んでもいいんだ!って突っ走っていった後に、桂小五郎がその志や夢を実践していったんだってことは、確かに言えると思います。 No.2として一番輝いていた時は版籍奉還の時と井沢先生が言ってくれていて、一番輝いていた時を桂時代じゃなく、木戸時代に設定してくれたのは新しいんでない?と、ちょっと嬉しかったよ〜! #
by snufkin-fin
| 2012-05-19 01:02
2012年 04月 19日
宮司さんの講義の内容は結構忘れてしまったのですが(ごめんなさい)、ちょこっとだけしたメモが見つかったので、思い出すはのかな~り苦しまぎれ状態ですが、やれる限りまとめてみます。 松陰先生って、兵学を教えるにあたっては藩主に対しても師となるような家柄の出身なわけで、兵学師範としてのスパルタ教育を受けて育っったんだという話があり。つまり生まれながらにして教師であり、しかも国防を考える立場にあったんだな~と、改めて思ったこととか。 なんだけど、伝統的な型にはまった座学だけでは物足りず、新しい時代の荒波が押し寄せようとしている中、学問は実践と結びつかなければ意味がない!という陽明学に近い考えを先生は持ち、それで国防を考えるための旅に出掛ける・・・東北?そんな経緯の話があったりとか。 この小さな塾で学んだ生徒は92名、期間はたったの一年一ヶ月。その多くが維新の礎となり、日本の植民地化を退け、新しい時代を担う人材となったわけで。 なぜ、この短期間に、これだけの人材を育てることができたのか? その問いを、4つのポイントに分けて解説してくださってました。 先生は野山獄時代くらいから、自分一人と自分の人生だけでは志を遂げるのは難しいと考え始め、人として日本人として有為の若者を育てるんだという明確な意思を持って、教育あたったのだとか。 1.至誠の精神 こちらの誠意が伝わらないのだとしたら、それは自分の真心が足りなかったからだと考えるって・・・それで処刑されちゃった松陰先生はあまりに純粋すぎる。でも、ただ世のため国のためという精神は、門下生に受け継がれたと思うんです。 2.尊皇の精神 これは日本人としてのアイデンティティーのいきつく場所で、今も変わっていないはずと。維新においても思想と大儀の柱になりましたよね。 3.集団指導、個別指導の徹底。 4.人を見る目と優しさ。 先生は門下生の性格や才能を見抜いて、一人ひとりの個性を伸ばしたり、やる気を起こさせるように仕向けたりするのが、上手だったんだろうと思います。心の入った、地の通った教育によって、人が驚くほど成長して力を発揮するということ・・・現代だってあるかも知れません。 ああ、もう途中から宮司さんの仰ったことではなく、そこから自分が思ったことを書き出してしまってます・・・あれれれ。 身分に関係なく学べて、誰もが先生で、友に学びあうという講義風景も、当時の封建社会からしたら、そもそも革命的だよなぁ~と思ったり。 先生の経験や、江戸からの情報をもとに、門下生たちの目を覚ませるような鬼気迫る講義もあったんだろうな~とか。色々その場で思いを馳せました。 結局まとまらないですが、ここには日本を変えてしまうだけの、何か沢山の要素があったんです。それを少しでも感じ取れていたらいいのですが。 その後は、講義室で写真タイム。ミーハー的に盛り上がる参加者たち(笑)。 松下村塾の講義室で記念撮影。 自分にモザイク掛けるって笑えるな~^^;。 門下生の写真の前でも。 その後、松陰神社の正式参拝もさせてもらえました。 松陰神社のご神体は、松陰先生愛用の赤間硯で、これは自分の魂が宿るものとして、松陰先生が自分で指定したのだそうです。知らんかった~!! それから、お久しぶりの木戸さん家訪問へ♪ も~ね、た・だ・い・ま(はーと)って感じです。 誕生の間ですよ! 飾ってある書とか写真とか、全然変わってない気がしますけど。 お気に入りのこの写真も変わらず展示中でした。 露出度の高いこの写真も。 桂小五郎少年(11歳)の手習いの書の前にて。 二階の桁に木戸さんがした落書き。「已後而死」(死してのちやむ)。死ぬまで努力し続けるという意味で、出展は「諸葛孔明」から。 通りからは一階建てにしか見えないのですが、実は2階建て。 お庭の風景。木戸さんもこの風景を眺めながら、物思いにふけったのかも。 すごい松です~。木戸さんも見上げた松・・・。 60過ぎたらマジで萩に住んで、木戸家の案内ボランティアとかやりたいかも~。ダメ? #
by snufkin-fin
| 2012-04-19 00:07
| 旅行記
2012年 04月 16日
結構Facebookが継続していまして、めっきりこちらに近況を書かなくなってしまいましたが、元気にしています(シューが代理で元気ですと言ってくれてます・笑)。 私の知り合いでFacebookをやっているのは旅関係の仲間がほとんどなので、その方面の人々とのネットワークツールに限定されてしまっているという問題はあるんですが、思い出や情報を共有出来たり、掲示板やメール代わりにもなっていたりで、チェックしないわけにはいかなくなり、必然的に自分もFacebookに投稿する習慣になってしまった・・・。 いつの間にこーゆう世の中になったのでしょうか。mixiやtwitterを全然やったことがなかった私には、全く新しい世界です。 幕末好きの人達とも繋がったり、旅仲間から色々な情報やイベントのお誘いがあったり、今のところFacebook始めて良かったな〜と思えているので、続けていこうと思ってます。 今後も基本リアルタイムの近況はFacebookで、後々に旅行記を写真入りでまとめる時はこちらを使っていこうと思います。 私の本名を知っていて、Facebookをやっている方は、友達申請してくださると嬉しいです。 Facebookをやらないのは、目の前に万札がバラバラ落ちてるのに拾わないのと一緒くらいに言う人もいるのですが、さずかにそこまでの価値は実感しませんけどね〜。色々な人と繋って情報や人脈も広げていこうとする、若い起業家タイプには必然なのかも知れませんね。私はそんなことは全然考えていないので、第一目的は備忘録というスタンスは変えずにやっていこうと思います。 萩旅行の続きとか石巻にも行ってきたのでここにまとめたいんですが、時間が無い〜! #
by snufkin-fin
| 2012-04-16 23:22
2012年 02月 20日
今回の一番の目的は、松下村塾で開かれる「特別講座」。なんと松下村塾に上がらせてもらえて、松陰神社の宮司さんの講義が聴けるという企画。松陰神社の正式参拝つき。 あの学び舎に私も上がれるんだよ~!きゃっ♪てことで、楽しみにしていました。 講座までまだ時間があるので、先に松本村を散策。吉田稔麿の家が村塾のすぐ裏とか聞いてたから、探したらすぐ発見できました。 さらに奥に進むと、伊藤博文旧宅があるのは、記憶していました。でも、13年前と違ったのは・・・。茅葺きの伊藤俊輔くん時代の旧宅の隣に、 品川区大井にあった伊藤博文公時代の別邸がど~んと移築されていたのです!前はこんなの無かったのに~ぃ 。と言っても。3分の1くらいしか、持って来れなかったらしいです。東京にあった時は、ニコンの寮として使われていたそうです。 一枚板の天井です。樹齢1000年の吉野杉だそうです。 別邸内の展示より。俊輔と聞多。 手前でメンチきってる人(笑)が木戸さん。斜め右後ろの笑顔が俊輔。 吉田松陰の実兄、当時52歳の杉民治の入れ歯装着を祝って(笑)、の寄せ書きの巻物が・・・。 まずは、時の内務卿、伊藤博文の書。「沢庵も平気で食べることができ、堅い氷も意のままに噛み砕くことができますね。」って、書いてます。だから何なんだ。とにかくめでたいのか。お偉い方が揃って寄せ書きしちゃうほどなのか。明治に入って、西洋からゴム製の義歯の製法が入ってきたので(それまでは木製)、もしかしたら画期的なゴム製の入れ歯だったりしたのでしょうか。 同じく、杉孫七郎(宮内大輔)の書画(落書き?)、山田顕義(司法大輔)の書。 2階に上がると、外の景色が開放的に良く見えて、田園や山々が目に入ってきて、のどかな気持ちになれます。気持ちいいな~ここ。京都の木戸邸の2階を思い出します。 製作過程1年の欄間だって。 1000万円のけやきの床の間。 贅沢ですが、派手ではなく、さりげなく意匠を凝らし、どっしりと落ち着いた印象で、素敵な家だと思いました。この家好き~。 博文別邸の木戸孝允の説明書きには、お決まりの略歴の後に、なぜかこのようなエピソードが書かれていました。 [欧米視察中、木戸は、青年時代にずいぶん苦労した俊輔が、15両もする上等の帽子をかぶり、一箱8両もする葉巻を5日で吸ってしまうなどの近頃の贅沢振りを不快に思っていた。ロンドンで伊藤は使節団の帰朝は明治6年夏過ぎであろうと報告書に書いた。それを見た木戸は、「いつ日本に帰るか分かるものか。とかく二、三の若者が自分の進退を議する様子がある。」と憤然として言った。しかしそれは、留守政府が困るから早く帰って欲しいという要望に答えたまでで、悪意から出たものではなかった。帰国後伊藤は木戸を訪ね、征韓論や日本の将来について論議した。木戸は大変満足し、欧州で起こった感情の行き違いが氷解したのである。] 視察中の師弟仲たがいについては、俊輔の贅沢や西洋かぶれが気に食わないはベースにありつつ、色々な理由で書かれているのですかね? いよいよ「特別講座」へ向かいます。明治維新150周年となる2018年にむけて、長州を盛り上げようという企画の一環、プレイベントの一つのようです。 普段は上がらせてもらえない松下村塾の内部に、足を踏み入れさせてもらえるという貴重な体験。それだけでも、来たかいがあったというくらい、感動でした~!! 松下村塾の建物は、8畳の講義室と、後に塾生たちが増築した奥の10畳半の部屋からなります。まずは講義室側から靴を脱いで上がり、、かつての村塾の講義風景のように、参加者(全部で10人くらい)は左右に対面式に並んで座りました。宮司さんによると、松陰先生は真正面ではなく、像が置いてある前辺りに斜め向きに座られていたとのこと。また、多分個人や少人数グループとも対話しに、あちこち部屋の中を移動しておられたのではないでしょうか。 最初の一歩は緊張してしまいました。おずおず状態です。だって、あの高杉が、久坂が、学び、議論を交わし、松陰先生が座っていらしたまさにその場所ですよ~! ここは、本気で国を憂い、熱く語り、議論を戦わせ、怒り涙し・・・そんな生きた授業が行われた場所。維新の原動力となった、狂おしく濃い魂の発生源となった場所なんです。 時代を遡って、自分もその中に居させてもらえているような感覚。恐れ多いです~。ドキドキ。足がしびれて終始落ち着かなかった辺りは、現代人丸出しでしたが、トホホ。 先生や塾生が寝泊りしたり、印刷場として使っていたという天井裏もよく覗けました。 #
by snufkin-fin
| 2012-02-20 22:56
| 旅行記
2012年 01月 25日
ようこそ萩へゲート(笑)を過ぎても、萩往還歩きは続く。竹林~。 萩往還の起点である唐樋札場跡から最初の一里塚・・・ってことはあと4km! 「大屋刑場跡」の標石と背中合わせに、首切り地蔵が立っていました。 藩政時代には、ここで斬首、はりつけが行われていました。首切り地蔵は、囚人を最後に仏前に合掌させるためのものだそうです。 また、1759年(宝暦9年)に藩医の栗山孝庵が日本で初めて女体解剖を行ったところでもあり、「女性屍体腑分けの跡」の碑も立っていました。 有名な涙松までやってきました。ゴールは近いぞ~! 萩から旅立った人が等しく、萩城下が見納めとなる地点でした。ここを過ぎると道が左に回りこんでしまうから。振り返りながら、松木の間から見え隠れする城下を目に焼きつけ涙する・・・そんな場所。松陰先生も安政の大獄で江戸伝馬町の獄に送られる時、ここで「かえらじと思いさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな」と詠んで涙し、故郷との別れを惜しんだのでした。 草木がもさもさですが、一応ここから萩の街が見えるかな? 城下町の表玄関である大木戸があった、金谷天満宮に到着。ここまでくると、完全に萩市内に入ったな~って感じ。 もう暗くなり始めていました。 松陰先生バスが来たので、乗ってみたけれど、現地の人とあれこれ話したところ、宿に行くのにあまり関係ないルートだったため、結局すぐ降りました。 ゴ~ル!!高札場跡にたどり着きましたぁ~! この日はこのまま宿へ。民宿にお泊り。松本川の近くでした。翌朝、橋を渡って松下村塾方面へ歩く。 橋を渡ってすぐ、品川弥二郎宅跡発見。入江久一と野村靖兄弟誕生の地、は橋を渡る前にありました。 わ~超久しぶりの松陰神社ぁ!! #
by snufkin-fin
| 2012-01-25 19:50
| 旅行記
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